偉人紹介great man

宿毛市

小野 義真

おの ぎしん/よしざね

岩崎彌太郎の懐刀

天保10年(1839)、宿毛の大庄屋に生まれた小野義真や、緒方洪庵の適塾で学びます。幕末には同郷の竹内綱や小野節吉と大阪に蔵屋敷を構えて宿毛の特産品を扱う事業をはじめ、宿毛の財政を建て直します。この頃、土佐商会の岩崎彌太郎とも親しくなり、明治維新後は官職にも就きますが程なく辞職、彌太郎自身の顧問として招かれ、彌太郎が社長を務める三菱の成長に手腕を発揮します。重大な事業は義真の意見を聞いたうえでないと手を付けなかったと言われており、信頼の厚さが伺えます。西南戦争の際、彌太郎は義真の助言により、明治政府の兵器弾薬の輸送に定期船を全て停止してまわし、このことで三菱は後に財閥へと成長する基盤を手にしました。

明治14年(1881)、日本の鉄道設立にあたり、彌太郎の推薦で参画します。岩倉具視から東京-青森間の私設鉄道建設を任され、早速、日本鉄道会社の副社長をつとめて資金調達などに尽力し、開通にこぎつけます。この鉄道は明治39年(1906)国有化され、現在はJR東日本の東北本線となっています。またその頃、当時の鉄道庁長官であった井上勝が開設した岩手県雫石町の大規模農園について、三菱社の2代目社長岩崎彌之助(彌太郎の弟)とともに本格的な経営を始めます。その際、共同創始者である小野の小、岩崎の岩、井上の井の頭文字をとって「小岩井農場」と名づけられました。小岩井農場は現在も日本最大の民間総合農場として実績を重ね、観光地としても有名です。

明治初期の海運事業・鉄道事業の創業や様々な経営に深く関わり、明治維新後の実業界を支えた義真ですが、とても面倒見のいい人物としても知られています。早稲田大学建学の母として知られる小野梓は、自身が士族の身分を捨てる際に義真を頼っており、義真はその後も、留学費用を負担したり、梓が開業した東洋館書店の資金繰りを手伝ったりしました。また宿毛市の坂本図書館を作った坂本嘉治馬が、東洋館書店を引き継いで冨山房を設立する際に資金を提供したのも義真です。見知った人と会うときも決して姿勢を崩すことがなかったというエピソードからは、自分にも厳しい人柄が垣間見え、頼ってくる者の人物評や、その後の夢や展望をしっかりと見極め、世話をすると決めたら責任をもって支える親身な人格の持ち主でした。
(宿毛市立宿毛歴史観 山下 あやの)

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