四万十市
幸徳 秋水
こうとく しゅうすい
明治時代のジャーナリスト、社会主義者
明治4(1871)年、現四万十市中村の豪商俵屋の次男として生まれる。本名は伝次郎。地元の寿が雨社木戸明(きど めい)の遊焉塾に入塾して才覚を現し、のちに中江兆民の書生として学ぶ。秋水の名は兆民の号を譲り受けたもの。
明治23(1890)年、自由新聞社に入社し、ジャーナリスト、文筆家として世に知られるようになる。資本家と労働者の貧富の差を生む資本主義社会から平等・公平な社会を目指し、次第に社会主義に傾倒していく。
日露間の国交が緊迫し、戦争を肯定する世論が強まるなか、秋水は平民新聞を発刊し、帝国主義を批判、戦争は少数の資本家や企業が利益を得るのみであると指摘し反戦を訴えた。掲載論説の編集責任を問われて禁錮5ヶ月の刑に服するも出獄後に渡米し、政府の存在を否定する無政府主義に傾倒。帰国後は労働者のストライキを呼びかける直接行動論へと方針を転換して運動の中心人物となる。
こういった活動は社会主義運動の危険視につながり、一部暴徒化する運動も発生するなかで、明治43(1910)年に天皇暗殺謀議の罪で社会主義運動家らとともに逮捕され、翌年1月24日に41歳で刑死する(大逆事件)。
近年の研究により大逆罪については冕罪であったと考えられ、顕彰が進んでいる。
主著は『社会主義神髄』。
墓碑銘は生涯親交の深かった小泉三申(こいずみ さんしん)によるもの。
(四万十市生涯学習課社会教育振興係長 川村 慎也)