四万十市
木戸 明
きど めい
幕末・維新期に教育で国家に貢献しようとした儒学者
木戸明は天保5年(1834)現四万十市中村に生まれる。9歳から、四書、五経等を学び、13歳で郷土の維新士樋口真吉から文武の指導を受けている。若くして3回京都に上り、漢文・漢籍について学んで儒学者としての見識を高めた。とくに書道や漢詩に堪能で、多くの墨蹟を残している。
中村帰郷後は京都遊学で高めた儒教思想や勤皇思想を背景として、樋口真吉、安岡良亮らとともに勤皇討幕運動に活躍する。実家が商家であった明は、藩や国への貢献のため大砲製造などに多くの私財を投じている。
明治維新後、政府により神社・神道の保護や神職教育が重視されると、明は不破八幡宮の祠官を務めて神職の指導にあたり、自宅隣の現・中村大神宮の建設にも尽力したと伝わる。また、28歳で藩立学校・文武館(のち行余館)の指導役に任ぜられて教育者としての道を歩き始め、同年、自宅の敷地内に家塾・遊焉塾も開設して後進の指導にあたった。明治~大正期に明の教えを受けた者は3千人に及ぶと伝わる。教え子の中からは首相濱口雄幸、土佐の交通王野村茂久馬、海軍大将吉松茂太郎、幸徳秋水など錚々たる顔ぶれが巣立っている。儒学者、勤王志士、神職、教育者と多様な顔を持つ木戸明であるが、その根底には国家に対する貢献が一貫しており、そのために教育の重要性を認識し、実践した人物である。遺墨である「赤心報國」には、赤子のような無垢な心で国に尽くそうとした明の心情がよく表現されている。