宿毛市
岩村 通俊
いわむら みちとし
北海道開発の父
天保11(1840)年、宿毛領主に仕える父・英俊の長男として生まれた岩村通俊は、文武両道に通じ、新しい時代へと大きく変化する日本の各地を躍動しました。
通俊が尽力した事業に北海道の開拓があります。明治初期の北海道は家畜や人間が熊に襲われることが珍しくなく、田畑の耕作が難しい土地でした。そんな中北海道開拓を進めることになったのです。
札幌の開発を進める中、一度は北海道を離れる通俊でしたが、15年後に北海道庁長官に任命され再び開拓に携わります。上川盆地に北海道の中心地を作ろうと構想し、整備されたのが旭川の町です。北海道の人々は感謝の意をこめて、札幌と旭川には通俊の銅像を建てています。また、各地での武力反乱の解決にも奮励しました。
佐賀県令になった翌年に弟の高俊を後任に推薦し佐賀を離れますが、その後江藤新平率いる佐賀の乱が起こります。通俊は佐賀に戻り、高俊を助け反乱を鎮めました。
山口県で地方裁判所長に任命された通俊は、萩の乱の裁判を行いました。被告人と心を通わせることを最優先に裁判にあたり、事件内容をすべて明らかにし判決へ導きました。
西南戦争の際も、通俊は鹿児島県令に任命されたばかりで、鹿児島の人々に政府の考えを説明し、混乱を鎮めました。また、西郷隆盛の亡きがらを引き取り丁寧に葬っていて、隆盛の墓の前には通俊の記念碑が建てられています。
決断力にあふれ時代の流れを読んだ通俊は、各地で難問に直面しながらも数々の事績を残しました。
(宿毛市立宿毛歴史館 山下あやの)